ひとには、思い出すたび悔しがる痛恨のできごとというものが、必ずある。
タイムマシンがあったなら、当時に戻って若く見識もない自分を叱りつけ、歴史的瞬間をその目に焼きつけてこんかい! と怒鳴りつけてやりたい──そのくらい悔しい思いをしている製品が、わたしにも存在する。

サクラクレパスの「ボールサイン280」である。

サクラクレパスの製品というと、一般的には「クレパス」や「クーピーペンシル」、「マット水彩」に代表される学童向けの画材関係が広く知られていると思われるが、実際にはその取り扱い製品は多岐に渡っており、また「世界初」と謳う製品も少なくない。
いぜん本連載で取り上げた「ピグマ」も、世界で初めて水性顔料を使用したマーカー(ミリペン)だった。
そしてここに、満を持して登場したのが、「世界初の水性顔料ゲルインキボールペン」ボールサインだ。

それまでボールペンには、油性ボールペンと水性ボールペンの二種類しかなかった。
油性ボールペンのよさとは、筆記距離の長さと、インク残量が見えること。
水性ボールペンのよさとは、発色の良さと、書き出しの軽さ。
両者のいいとこどりをする、そんな製品を発明することは可能なのか?

わたしがボールサインの存在に気づいたのは、1987年になってからだ。
ボールサイン280が発売されたのは、それより3年も前の1984年。わたしは高校三年生だった。
受験を控え、趣味の漫画執筆を封印し、テレビ視聴も一週間にいち番組にとどめ、深夜ラジオを味方に日々受験勉強に勤しんだ毎日だった。この年の芸能や風俗、事件や出来事などはまったく記憶に残っていない。無論、文房具店の滞在も消耗品の補充に限られ、ボールサイン280に出逢うことはなかった。
一浪して大学に入り、一年生は静岡県三島市の一年生校舎に通い、二年生になって晴れて上京を果たす──それが1987年だ。
大学のすぐ近くに、サークルの先輩同輩がたむろする喫茶店があった。そのはす向かいにちいさな文房具店があり、そこを覗いていたときに発見したのが、ボールサイン280との最初の出逢いだった。

顔料で構成されたゲルインキは滲まず、耐水性があり、軽いタッチで字が書けて、発色が黒々としていて実にわたし好みだった。
そもそもゲルインキが何なのか、世界初であったとしても何が凄いのか理解できていなかったわたしだが、その書き味には心底惚れていた。1本目のボールサイン280が書けなくなった段階で、わたしはまたその文房具店を訪れた。
ボールサイン280は、ボールサイン150に変わっていた。
次に同じ店を訪れたときには、併売していたはずのボールサイン280は店頭から消え、ボールサイン80が並んでいた。
もちろんそれぞれの製品は、発売年が異なる。だがわたしはその一年で、ボールサインが280円から80円まで値下げされたかのような錯覚に囚われていた。

同じブランド名のつく製品が、わずかな期間でここまで値下げされた例はあっただろうか。
わたし個人はボールサイン280の軸が好きだったので、ボールサイン80の全身半透明軸は定価以上に安っぽく見えてしまい、そもそもなんで100円じゃなくて80円なんて半端な価格なのか当時はさっぱり理解できなかった。
だが、今なら判る。タイムマシンに乗って、1987年の無知なわたしに教えてあげたい。
ボールサインは挑戦したのだ。油性ボールペンという、ボールペンのメインストリームに対抗するため、当時の事務用(一部では「鉛筆型」などと呼ばれることもある)ボールペンの価格帯に挑戦したのだ。
その当時の事務用ボールペンは、60円ないしは70円。70円タイプには、ボールサイン80と同様の「キャップにクリップ代わりになる出っ張り」が生えている。
その70円の事務用ボールペンと同じ土俵で店頭対決および納品対決しようとしたのが、ボールサイン80だったのだ。
そしてここから、世に言う「ゲルインキボールペン戦争」の火ぶたが切って落とされる。ライバルとなるぺんてる「ハイブリッド」の発売は1989年、ボールサイン80から2年後のことだ。

ボールサイン280が世に出て30年以上が経過し、いまサクラクレパスには「クラフトラボ」と呼ばれる高級筆記具ラインが誕生している。現在ラインナップされている001と002はゲルインキボールペン。ボールサインの、直系の子孫たちだ。
いま手元にあるクラフトラボ001で紙に字を書いても、残念ながらボールサイン280の思い出は蘇らない。もう、おそらく、まったく異なる書き味なのだろう。21世紀の完成されたゲルインキの余韻に浸りながらも、元祖の発売の瞬間をこの目で見ることができなかった当時の自分を呪うしかない。
タイムマシンに乗って、高校時代の余裕のないわたしに教えてあげたい。
どうせ机にかじりついたって浪人するんだ、たまにはゆっくりじっくり文房具店を見て回れ、歴史的新製品を目の当たりにしろ、と。
そして翻り、いまの自分にも言い聞かせるのだ。
いまも変わらず、時代の転換点だぞ、と。見逃すな! 文房具の未来!

(サクラクレパスの表記に従い「ゲルインキ」で記事内を統一しています)