■データ

(c)2016「永い言い訳」製作委員会

映画『永い言い訳』
2016年10月14日公開
原作・脚本・監督:西川美和
出演:本木雅弘、竹原ピストル、深津絵里、池松壮亮ほか

概要とあらすじ:
『ゆれる』『ディア・ドクター』の西川美和監督が、自著を自らの脚本で映画化。人気小説家の津村啓こと衣笠幸夫は、妻を不慮の事故で失ってしまう。だが妻への愛情はすでに冷め、事故の起こった夜も不倫相手と密会していた幸夫は、妻を亡くして悲しみにくれる様を演じることしかできない。そんなとき、ひょんなことから同じ交通事故で妻を亡くした大宮という男と知り合い、大宮が育てている幼い兄妹の世話をすることになる。

DVD情報
販売元:バンダイビジュアル
価格:3800円+税

 

 

■文房具キャスト

モレスキン クラシックノートブック ソフトカバー ルールド」(モレスキン)
19世紀末に誕生し、ゴッホやピカソ、ヘミングウェイらも愛用したと言われるフランス製のノートをイタリアのメーカーが復刻。高級ノートの代名詞的存在で世界中にファンを持つ。撥水加工の黒い表紙と表紙を閉じるためのゴムバンドが特徴。

ジェットストリーム スタンダード」(三菱鉛筆)
2006年に発売された油性ボールペン。滑らかな低粘度油性インクを採用し、従来品とは格段の軽い書き心地を実現した。シリーズ全体の世界販売本数は年間約1億本という大ヒット製品。


■古今東西の映画に登場する高級ノート「モレスキン」

本作の主人公・衣笠幸夫は自意識過剰で“ええかっこしい”な男。献身的な妻を裏切って愛人をつくり、気の利いた高級インテリアに囲まれ、少なくとも物質的には充分恵まれた生活を謳歌しているように見える。が、最近ではその稼ぎを生み出していた筆も鈍り、常にどこか苛立っているようにも映る。総体的に見て“いけ好かないイヤな野郎”を、本木雅弘が見ていて心配になるくらいのハマり具合でみごとに体現してみせている。

(c)2016「永い言い訳」製作委員会

そんな幸夫に突然「妻の死」という事態が降りかかる。幸夫はその状況をうまく受け入れられない。もともと妻への愛情が冷え切っていたせいもあるが、身近な誰かを突然うしなってしまうという現実に向き合うのを無意識に避けているようでもある。そのため、根っから身についた「(愛妻を失った)小説家の姿」を「演じる」という振る舞いだけが我々観客の目に否応なく焼きつき、より“イヤな野郎”感を際立たせてしまう。

近年、同じようなテーマを扱った映画にジャン=マルク・バレ監督、ジェイク・ギレンホール主演の『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』(2017)があった。両作とも主人公が妻の死から快復していく過程で「書く/読まれる」という行為が大きな役割を担っているが、『永い言い訳』の場合、その「書く」という行為を支える筆記具──すなわちモレスキンとジェットストリーム──に文具ファンなら見逃せないある含みを持たせている。

モレスキン クラシックノートブック ソフトカバー ルールド

オイルクロスの黒く硬い表紙とゴムバンド。丸みを帯びた角と手に馴染み長方形。シンプルでエレガントなモレスキンノートの姿は古今東西の映画の中でよく見かける。『ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎』(1985年)『ナショナル・トレジャー』(2005)『ダ・ヴィンチ・コード』(2006)『マイティ・ソー』(2011)などなど。これらアクションアドベンチャー映画に登場するときは、「ハードな環境でも頼れるタフなプロ用ノート」としてのキャスティングだろう。

(余談:『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989)にもモレスキンを思わせるノート「聖杯日誌」が登場する。そしてその『インディ・ジョーンズ』シリーズのゲーム的リメイクとも言えるアドベンチャー・アクションゲームの傑作『アンチャーテッド』シリーズでも、やはりモレスキンを思わせるノートが主人公の記録アイテムとして大きく扱われている)

 

■モレスキンに組み合わせたのは意外な「あのボールペン」

一方、『永い言い訳』でのモレスキン・キャスティングはどうか。

西川美和監督はインタビューで、「モレスキンのノートも格好いいし、あこがれるんですけど」と語っている。つまり西川監督はモレスキンの実用性より、見た目や「芸術家たちが愛用した」という触れ込みに誘惑されており、そうした価値観をそのまま主人公・幸夫に投影させているのだ。この方向性でのキャスティングは『アメリ』(2001)『(500)日のサマー』(2009)でのモレスキン使いの延長線上と言えるだろう。しかも幸夫の場合、ノーマルなハードカバータイプではなく、あえて王道ではないソフトカバーのモデルを持たせることで、幸夫というキャラクターの賢しらさを表現しているのだから、西川監督、本当に意地が悪いと言わざるを得ない。

だがしかし、本作のキャスティングの妙はこの先。モレスキンに対してジェットストリームというボールペンを組み合わせたところにある。

2006年に発売されたジェットストリームはこれまでの油性ボールペンとは一線を画す「低粘度油性インク」でボールペンの世界に激震を起こした。筆者が主催しているボールペン人気投票「OKB48総選挙」で6年連続1位に選ばれていることからもその人気と実力のほどが伺えるだろう。実際、西川監督も10年近く愛用しているそうだ。

ジェットストリーム スタンダード

幸夫が手にしているのは160種類以上あるジェットストリーム・シリーズの中でも、一番スタンダードで安価なもの。このペンをチョイスした理由について西川監督はやはりインタビューでこう語っている。

「本木さんが演じる衣笠幸夫はこだわりの強い、美意識の高いキャラクターだったので、もしかしたら万年筆でもよかったのかもしれないけれど、逆にそれだと、嘘っぽく見えるかもしれないと思いました。一つくらい、人の目を気にせずに、“書く”ということに対して飾りなく誠実でいる部分を残しておいてやりたかったですし。小説家の役というと、映画人はついモンブランやウォーターマンの万年筆を持たせたくなる(笑)。そこをグッとこらえて、今回はこのペンを使わせていただきました。」
「西川美和 「これじゃないとダメ」な創作ノートの条件 」

つまり、幸夫の「ええかっこしい」を象徴する小道具としてモレスキンをキャスティングしたが、そこに書き込むペンは「モンブランやウォーターマンの万年筆」ではなく、実力優先でジェットストリームを選んだと。「ブランド」vs「実用性」という奇妙な矛盾の狭間に、なるほど、自意識過剰一辺倒ではない「衣笠幸夫」という人間のひだを感じるのである。

この映画の中でモレスキンとジェットストリームが出てくる場面は二度ある。一度目は幸夫が初めて大宮家を訪れたとき。こたつで眠る長男の横で、手持ち無沙汰の幸夫は鞄の中からモレスキンを取り出し、ジェットストリームでゆっくり一行書く。(モレスキンにジェットストリーム?)という、異物感がどちらかと言えば目立つ場面だ。少なくとも筆者にとっては。

しかし二度目の登場シーン。物語終盤、大宮父子と別れてひとり電車に乗った幸夫は、人気のない車内でモレスキンを取り出すと、狂おしげな表情でもどかしそうにジェットストリームのペン先を走らせる。ペン先が滑りすぎて崩れた筆記線。一目で低粘度油性インクと分かるあの線が、あそこまではっきり捉えられた例は史上初めてではないだろうか。筆記体を失って久しい国の、新たなる崩し文字。それはとても現代的で豊かな文字だと思う。もうここに違和感はない。なぜならスクリーンに映っているのは、ようやく書くべき現実を見い出し、それを取りこぼさぬようにと必死にメモを書きつける作家の姿だからだ。

モレスキンをかっこいいと思う我々の心理を突き詰めていくと、「これさえあればなにか素晴らしいことが書けるはず」という幻想へと辿り着く。その幻想はフェイクかもと薄々勘づきながら、それでも今日もまた我々は使いきれないほどの新しいノートやペンをレジへと運んでしまう。文房具ファンなら誰もが抱えるこのイタさを、幸夫という男に背負わせながら、しかし最後には我々が辿り着きたいと願う場所までちゃんと導いてくれるのだ。

優れた演出家による、極めて優れた文具キャスティングである。